1月17日、阪神大震災から28年。
あの日、5:46神戸から離れたところでしたが大きな揺れで目が覚めました。
朝になり、テレビをみると自宅あるNHK神戸放送局周辺には倒壊した家屋が映り、家族とも連絡が取れませんでした。
「もしかしたら・・・」と「どうか無事でいて」の思いで車を走らせ帰宅をこころみたものの、神戸に入る道はどこも渋滞、途中のコンビニにも食料や飲料はない状態でした。
やっとたどり着いた我が家は斜めに傾き、電気も電話線も切れていました。近隣の家も道もがれきだらけ。
家族は無事でしたが、建物の下敷きになっていた向かえのおばちゃんが助け出されたところでした。
朝から弟が救出してほしいと警察署に何度も行ったれど行列ができてたので、どこからか戻ろうとしていた警官に頼みこみ、皆で救出したとのことでした。
私はその日は夜勤勤務でした。家族の無事を確認し、すぐにバイクをがれきから引っ張り出し病院へ。
どの道にも倒壊した家屋で細い道は塞がれ、道なき道を病院へ向かいました。
病院に到着すると自宅に電話が通じなかったので、夜勤要員を探していたとのことでした。
携帯電話がない時代、まだ連絡が取れない職員が多数いました。病院では停電のため、自家発電で最低限の電気だけが灯っていました。
停電、断水、ガスも利用できないため寒々としていて、患者さんは「家族に連絡が取れない」、「自宅がどうなっているかわからない」と不安な様子でした。
夜勤前にトイレに大きなポリケースに入った水が運び込まれ、「これで明日までなんとかしのいでほしい」と説明されました。
夜勤が始まったあとも夜通し、倒壊した家屋から救出された患者さんの受け入れが続きました。懸命に受け入れましましたが、救えた命、救えなかった命がありました。
気が付けば夕食の時間は過ぎていましたが、食事は到着していませんでいた(朝昼は、ビスケットなどの病院の保存食だったと患者さんが教えてくれました)。
20時をすぎ、ようやく夕食が運び込まれました。職員が駐車場で炊き出しをして握った三角のおにぎりがアルミのトレーに並べられ、
「おにぎり2個とたくあん3枚をくばってください」と。
一人一人の患者さんに「遅くなって、すみません」と紙皿におにぎり2つとたくあんをのせてお渡しすると、「少ない」「遅い」ではなく「こんな時にありがたい」「ありがとう」と手を合わされ、胸がつまる思いでした。
いつもは窓の外にきれいな神戸の夜景が広がります。しかし、そこから見えるのは真っ暗な闇、火災の炎、救急車・消防車・パトカーの赤色灯が移動する姿でした。窓辺に立つ患者さんが「神戸に地震はないと思っていたのに・・・きれいな神戸が、こんなになってしまって・・・」と、その肩をだき一緒に涙を流しました。
休憩室のテレビはナースステーションに置かれ、度重なる余震とともにその被害の状況を途切れなく伝えていました。
安否情報の犠牲者の名簿には友人、知人、元気に帰っていった患者さんの名前も。それでも、まだ救出されていない方も多く、どれほどの被害なのかは想像がつきませんでした。
夜通し患者さんが運ばれ、次々とくる余震のたびに病室をラウンドしました。静まり返った病室でしたが、誰も眠れない夜を過ごしているのを感じていました。
「私は、患者さんや共に働くスタッフを守れるのだろうか・・・」と、止めどない余震に不安を覚えました。
夜中に倒壊家屋から救出された患者さんは、「大丈夫です」とベットで休まれましたが、翌日吐血。透析ができる病院へ転院しました。
夜が明けた翌日の朝、銀色の給水車が病院に到着し、1月17日の夜勤を終えたんだという思いとなんだかちょっとほっとした気持ちになったのを思い出します。
また外来では、震災後近隣の方が避難してきていましたが、皆が肩を寄せ合って余震に耐えていました。
震災後は倒壊した家屋の下敷きななった方の受け入れ、震災2週間後くらいからは避難所先での慢性疾患の増悪や急性疾患の患者さんが増えていきました。
病院では、薬や備品のある物でしのぎ、その後救援物資としていただいた弁当や薬、医療用品へ切り替えました。
入院中の患者さんの多くが帰る家をなくし、避難所へ退院する方もおられました。すでに人間関係ができている避難所への退院、「どうか無事でお過ごしください」と祈る思いでした。
仕事を終えては、バイクで倒壊した自宅から物を運び、友人や知人の無事を確認しました。
避難した家では、数家族で身を寄せ合い生活しました。そのあとにも、「風呂に入らせて」と訪れる方もおられました。
断水が続く寮の看護師は、姫路の病院からの支援でお風呂に入りに行っていました。
私の自宅のあったブロックでは7名が亡くなりました。
ガスが止まっているため、神戸で火葬することができませんでした。友人や知人へお別れを言うこともできなかった。
毎朝散歩に出かけていたご夫婦は、夫の少し前を歩いていた妻が倒壊した建物の下敷きに。
家から数十メーターの三階建ての古アパートでは留学生が3名亡くなりました。がれきだらけで路地に重機が入れず、下敷きになった留学生が発見されたのは数週間後でした。「戦争よりは、まだいい」と話していた父の言葉も思い出します。
4日間家の下敷きになり、妻や子供を亡くし自分だけが助かってしまったと話す先輩。
友人は結納した翌朝にフィアンセがアパートで被災、火災のために亡骸も形見も見つけれなかったと話していました。
震災から数年たっても「町で彼女に似た体型の女性を見ると、生きてるんじゃないかと声をかけそうになる」と話していました。
焼けつくされた長田の火災の様子がよみがえってきます。
ほんとうに様々なことがありました。
震災から3が月、全壊した我が家は取り壊されました。生まれ育った風景、知った景色は徐々に消えていきました。
冬には、まだ街灯が復旧していない真っ暗なオフィス街でルミナリエが開催され、温かな光に心も温かくなり涙が流れました。時間が許すかぎり何度も何度も見に行きました。
そして本日、1995年1月17日から28年がたちました。
そんな私の記憶ですが、ここに記録させてくださいね。